メモ

カントの批判哲学 ジル・ドゥルーズ
~p22.

経験論における世界の諸目的は、自然によって紐づけられる。
理性→独創的なまやかし、策略、諸目的などない

カント
理性固有の諸目的がある、そしてそれだけが究極の目的
「究極目的とは、・・・自然だけでは十分でありえないような目的のこと」
カントによる論証
1. 価値による論証
理性が自然の諸目的を実現するのなら、動物性を越えたその能力は
いったいなんのためにあるのか?
2. 帰謬法による論証
自然の諸目的の実現を理性によって実現することは
合理的だろうか?
3. 対立による論証
自然の諸目的の実現の手段の一つだとしたら
動物の一種の目的と、人間的道徳的目的の二つの種類の
目的が対立するのは何故だろうか?

合理論
経験論とは異なり自然のみならず(?)、<存在>や<善>といった規則の
諸目的を追求する

カントの合理論への批判
理性の諸目的は、理性自身を措定するような目的である。
つまり、理性は自らの起てた問いについて理性によって解答する責任がある(?)
超越論的原理→理性の審判としての理性、
超越論的原理の二つの規定
(1)理性の諸関心ないし諸目的の真の本性
(2)それら諸関心を実現する諸手段

表象の関係を定義する三つの精神能力
認識の能力 一つの表象が、対象と対応づけをおこなう
欲求の能力  表象が対象の因果関係になる 
快・不快の感情措定能力 表象が主体を触発する

カントの提起
これらの精神能力は高次の形態をもつか?
高次の形態とは自律的である、それ自身によって自身を形づけるような
純粋理性批判ー>高次の認識能力は存在するか?
実践理性批判ー>高次の欲求能力は存在するか?
判断力批判ー>快と不快の高次の形態は存在するか?

高次の認識能力
認識とは、諸対象に対応した諸表象とこの諸関係をを把握する総合
この総合の二つの形態
アポステオリな総合→経験的
アプリオリな総合→普遍的、必然的

総合が経験的→認識能力は低次
自らの法則を経験から導く
→自律的ではない、自分自身の法則を自分自身の法則から導くのではないから

アプリオリな総合→自律的、対象に従属しない、むしろ対象が認識に従属
これが、高次の形態

この自律的な能力である認識能力が認識自身に関心を抱く(自己問答)
その認識能力に必然的に従属する諸対象である<現象>に対してのみ関心を抱く
<物自体>ではありえない。なぜなら、物自体として完結した存在が
認識によって従属されることはない。

高次の欲求能力
欲求:意志を規定する表象
表象は対象についた快・不快を媒介し意志を規定している。
つまり、意志は感受性によって規定され、自律的ではなく定次である。

意志が自律的、形式のみによって規定されるとき高次になる

道徳法則、理性それ自身で意志を規定
→高次の欲求に対する理性の関心が存在、これが実践的関心

この実践的関心はなんなのか?何に向かっているのか?

合理主義者にとっての実践的関心は、思弁的関心に由来する。
思弁的関心を特権化
弱点:思弁の真の諸目的を見誤る、理性を理性の諸関心の一つとして矮小化

諸関心の体系的な複数性および階層性は、真の原理、諸目的の体系の原理